【編集方針】

 
「本が焼かれたら、灰を集めて内容を読みとらねばならない」(ジョージ・スタイナー「人間をまもる読書」)
 
「重要なのは、価値への反応と、価値を創造する能力と、価値を擁護する情熱とである。冷笑的傍観主義はよくて時間の浪費であり、悪ければ、個人と文明の双方に対して命取りともなりかねない危険な病気である」(ノーマン・カズンズ『ある編集者のオデッセイ』早川書房)
 

2015年10月26日月曜日

春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その5

【メディア草紙】1990 2015年10月26日(月)

■春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その5■


▼江戸時代、春画の出版が非合法になることによって、かえって春画の豪華版がつくられるようになり(by平凡社の百科事典)、内容も、交合図=性交を描いた作品が増え、非交合図が減っていった(by白倉敬彦氏『江戸の色恋』)。前号では、こうした性風俗の取り締まりによる、取り締まる側にとって思いがけない変化――それは現代を彷彿(ほうふつ)させる――の歴史を振り返った。

また、ポルノを解禁した北欧ではポルノがほぼ消えた現状にも「知らなかった」という読者からの声があった。

▼春画展で浮世絵春画の実物を見てみると、まず、その摺(す)りの見事さに舌を巻く。豪華絢爛という四字熟語を絵に書いたような、って、実際に書いてるナ。そして、描かれている市井の世界の豊かさは、何度強調しても足りない。

永青文庫「春画展」のカタログで、早川聞多氏――今号でのちほど再登場する――が、春画の「登場人物」の変遷についてコンパクトにまとめている。それは、ぼくが浮世絵春画を好む理由でもある。


――――――――――
〈伝統的な肉筆春画巻ではその登場人物のほとんどが公家の男女か武家の男女であり、時に僧尼が出てくる。またなかには遊女と思はれる女性たちが登場してゐる。(中略)

一方、浮世絵春画に登場するのはそのほとんどが一般庶民の男と女である。浮世絵は江戸初期に二大「悪所」をいはれた遊郭と歌舞伎の世界からうまれたといふ通説から、浮世絵春画に描かれた男女は遊女と客の男、または享楽に耽(ふけ)る好色な男女たちが中心と思はれがちであるが、遊郭や歌舞伎の世界を舞台にした浮世絵春画は実は1割にも満たない。浮世絵春画の花形である大判12枚組物においては、遊女が1、2図も出てゐれば多い方で、12図全図が庶民の性風俗を描き分けたものであることが多い。

庶民といつてもその身分や職業は実に多種多様であり、また都市民だけでなく数は少ないが農民や漁民、山人(やまびと)といつた人々も登場してくる。さらに彼らの年齢も添乳(そえぢ)される乳児まで入れると、乳幼児から少年少女、思春期から青年期の男女、結婚した夫婦から中年の男女、さらには老夫婦から独り身となつた老人まで、人間の生涯にわたる性風俗が描かれてゐる。なほ浮世絵春画にも公家や武家の男女、また僧侶や聖職の男たちがしばしば登場するが、その割合は特に目立つほど多くはない。〉
――――――――――


▼浮世絵春画に描かれる人物は、ほとんどが一般庶民なのだ。春画のなかには葵の御紋が描かれたものもあり、将軍に縁のある人物が使ったものだといわれている。天皇家が成人の記念に春画制作を画師に命じたり、大名は新年のお祝いに春画を贈ったり、そして時代がくだると、さまざまな百姓も含めてあらゆる階層の人々が春画を楽しんだわけだが、「春画展」に行けば、まさにその通りの歴史の変遷を目の当たりにすることができる。

また、春画に描かれる女性は、不思議なことに着物を着たままの場合が多いわけだが、これは呉服屋がコラボしていたからだ、と、白倉氏のどの本だったか忘れたが書いてあった。春画を見て「あら、新しい柄ねえ。いま流行りなのかしら」と言って着物を買う、という寸法だ。つまり浮世絵春画は最新のファッション誌の役割も果たしていたわけだ。

ことばの本来の意味での「猥褻」――庶民の普段着――が、そこには描かれている。

▼今号では、ニッポンの風刺文芸の最高傑作とも評される(ぼくもそう思う)、とはいってもほとんど知られていない『女大楽宝開(おんなだいらくたからべき)』を紹介しようと思ったが、たぶんちょっと脱線します。

ちなみに『女大楽宝開』は、永青文庫の「春画展」では11月1日までしか展示していないのでお早めに。来年は京都で同様の春画展が行われるそうですよ。

▼さて、春画の解説本はいまやたくさんあるが、前号で紹介した白倉敬彦氏の『江戸の色恋』とともに、アンドリュー・ガーストル氏『江戸をんなの春画本 艶と笑の夫婦指南』(平凡社新書)も強くオススメしておく。880円+税。

この本は、平凡社のウェブサイトではまさかの品切れ重版未定だが、丸善&ジュンク堂や紀伊國屋書店などの大書店だと、けっこう店舗に在庫が残っていたりする(どうした平凡社、商売っ気がないねえ)。

▼江戸時代の女性にとって、春画はどんな意味をもっていたのか。ガーストル氏は、1705年に出版された春本『好色はなすすき』の跋文(ばつぶん)を引用する。


――――――――――
〈それ枕絵(春画)は、よめいりのとき第一の御道具也。

男とても持たでかな(適)はぬ物なり。

そのいわれをたづ(尋)ぬるに、人の心をよろこばしむるゆへなるとかや。

武士之具足櫃(ぐそぐびつ)に入るも此故(このゆえ)成べし〉
――――――――――


この、現代人にとっては衝撃的な跋文を解釈して、同氏はこう述べる。


――――――――――
〈枕絵が嫁入りの第一の道具であると主張しているのに驚かされるが、それに続いて、男にも必須のものだと言う順序が、現代の私たちが春画に対して抱いているイメージとかけ離れているのが面白い。

「人の心をよろこばしむるゆへ」という理由づけの意図ははっきりしている。つまり、儒教や仏教における「欲望・淫欲は邪(よこしま)である」という教えを批判し、性の愉しみは人生に欠かせないものであり、婚礼の後の夫婦の道にも必要なものだと主張しているのだ。

春本の中にこのようなことが書いてあるのには、女性読者を獲得しようという作者吉田半兵衛の意図もあったと見られるが、春画を嫁入り道具のひとつとする認識は、この本のみならず、江戸時代の文献にはよく現れる。〉(23頁)
――――――――――


▼春画は江戸の日常生活とともにあったんですねえ。で、脱線はここから。続けてガーストル氏は次のような挿話を引いて、近代ニッポンにおける生活風俗の激変を映し出す。


――――――――――
〈国際日本文化研究センターの早川聞多教授は、日本で初めて公立の図書館(つまりセンター内の図書館)における春画や春本の収集を始められ、春画に関する著書も多く出版されている。そのためか、日本各地の高齢の女性から、自分の嫁入りの時に春画をもらったが、次の世代は春画を所有していることを恥ずかしいことだと考えているため、自分の子孫に託すこともできないので、センターに寄贈したい、という手紙をもらうことがあるそうだ。

同じような話は他にも聞いたことがあるので、嫁入り道具に春画を含める慣習は、現代からそれほど遠くない昔まで珍しくなかったようである。その態度が極端に変化したのは特に戦後のことと思われる。〉(24頁)
――――――――――


▼日露戦争(1904-5年)では「勝絵」(春画のこと)を軍服に忍ばせて従軍した日本兵がたくさんいたそうだ。いっぽう嫁入り道具としての春画は、とにもかくにも20世紀中盤までは機能していたっぽい。そして今は絶滅した。なにがきっかけで、どこで変わったのか、おそらくすでに研究している人がいると思う。

▼ところでぼくはこの一文を読んで、宮本常一の『忘れられた日本人』を思い出した。具体的には、「文字をもつ伝承者」という章の一文である。適宜【】


――――――――――
〈文字に縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、【どこかに底ぬけの明るいところを持っており、】また共通して時間の観念に乏しかった。とにかく話をしても、一緒に何かをしていても区切のつくという事がすくなかった。【「今何時だ」などと聞く事は絶対になかった。】女の方から「飯だ」といえば「そうか」と言って食い、日が暮れれば「暗うなった」という程度である。ただ朝だけは滅法に早い。

ところが文字を知っている者はよく時計を見る。「今何時か」ときく。昼になれば台所へも声をかけて見る。すでに二十四時間を意識し、それにのって生活をし、どこかに時間にしばられた生活がはじめっている。

つぎに文字を解する者はいつも広い世間と自分の村を対比して物を見ようとしている。と同時に外から得た知識を村に入れようとするとき皆深い責任感を持っている。それがもたらす効果のまえに悪い影響について考える。〉(岩波文庫、270-1頁)
――――――――――


▼この「人間と文字と時間」をめぐる指摘を、ぼくは病院の待合室で読んだことをはっきり憶えている。極めて興味深かったからだが、早川氏の「嫁入り道具の春画は恥ずかしい」と思い始めた世代の挿話を読んで、はたと思い出したわけだ。

宮本常一の指摘には続きがある。


――――――――――
〈文字を持つ事によって、光栄ある村たらしめるために父祖から伝えられ、また自分たちの体験を通して得た知識の外に、文字を通して、自分たちの外側にある世界を理解しそれをできるだけ素直な形で村の中へうけ入れようとする、あたらしいタイプの伝承者が誕生していった。

が、【明治二十年前に生れた人々には、まだ古い伝承に新しい解釈を加えようとする意欲はそれほどつよくはなく、伝承は伝承、実践は実践と区別されるものがあった。

それが明治二十年以後に生れた人々になると、古い伝承に自分の解釈が加わって来はじめる。そして現実に考えて不合理だと思われるものの否定がおこって来る。】〉(281-2頁)
――――――――――


▼ニッポンに「小学校令」が公布されるのは、明治19年=1886年である。当時の文部大臣は森有礼。はたして、宮本常一が目の当たりにした「明治20年前に生まれた人々」「明治20年以後に生まれた人々」の違いは、小学校教育を受けたかどうか、と関係するのだろうか。ちなみに明治20年=1887年に生まれた人が7歳の時に日清戦争が起こっている。

▼近代以降の人間は、近代以前の人間が生きていた時間、空間、価値観を体験することはない。昔の人間の「意識」は、今の人間の「意識」とまるで違うはずだが、どう違っていたかすら、すでにわからないし、永遠にわからない。宮本常一は、その膨大な仕事群の端々(はしばし)に、ぼくたちの「意識の変遷」の機微(きび)を刻みつけている。竹中労の「うた」をめぐるルポの数々も、同じ問題を強く照らしている。

「嫁入り道具の春画は恥ずかしい」という意識に囚(とら)われ、そんなもの捨てるのが当たり前じゃんと思って疑わない現代人が、江戸時代の生活感情に戻ることは決してない。この「意識の変容」は、「文字教育の普及」や「時間の概念」の浸透と、どう関係しているのだろうか。

春画の扱いひとつから、「『意識』を意識する」という遠大なテーマが浮かび上がる。たぶん、すでにしっかり研究した人がいると思うが、どうなんだろう。

もしかしたら、春画の扱いの変遷は、「公序良俗」の浸透、つまり「エロ本やピンク映画には守るべき価値などない」という見下げ果てた「良識」や「表現の自由」観を持つ輩の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)と、深く関係しているのかもしれない。

春画を観ると、人は自分の「『意識』を意識する」ことができる。


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2015年10月25日日曜日

春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その4

【メディア草紙】1989 2015年10月25日(日)

■春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その4■


▼三省堂書店神保町本店1階でも、『大英博物館 春画』が閲覧できるようになってるみたいですヨ。

今号は、

・まず「春画」の定義
・警視庁の「気分」をめぐる補足メモ

・次に「色恋」という言葉について
・享保の改革、寛政の改革の意味

という流れです。


▼「春画」を平凡社の世界大百科事典で調べると、こう定義されている。


――――――――――
男女の秘戯を描いた絵。古くは〈おそくず(偃息図)の絵〉〈おこえ(痴絵、烏滸絵)〉といい、〈枕絵〉〈枕草紙〉〈勝絵(かちえ)〉〈会本(えほん)〉〈艶本(えんぽん)〉〈秘画〉〈秘戯画〉〈ワじるし(印)〉〈笑い絵〉などともいう。あらかさまな秘戯の図ではなく、入浴の場面など女性の裸体を見せる好色的な絵は、別に〈あぶな絵〉と称して区別している。

《古今著聞集》にも〈ふるき上手どもの書きて候おそくづの絵〉と記すように、落書のようなものではなしに専門の画家による春画の歴史はかなり古く、中世に入れば《小柴垣草紙(こしばがきぞうし)》(13世紀)、《稚児草紙》(14世紀、鎌倉末期)など絵巻物の傑作を生んでいる。

合戦に出陣する武士の魔除けとして、嫁入りの女性の性教育用として、あるいは純然たる楽しみのために、各時代、各派の画家の手がけるところであったが、江戸時代に入ると浮世絵師がもっとも熱心にこれの作画に当たった。(中略)18世紀に入って享保改革以後、春画の版行は非合法となり、かえって彫りや摺りの入念な豪華版が作られるようになった。(小林忠)
――――――――――


▼偃息図の絵、おこえ(痴絵、烏滸絵)、枕絵、枕草紙、勝絵(かちえ)、会本(えほん)、〈艶本(えんぽん)、秘画、秘戯画、ワじるし(印)、笑い絵。名前多すぎ。春画にはさまざまな異名があり、そもそも春画という言い方のほうが新しいんだね。

▼21世紀のニッポンにおいて春画を取り締まる基準は、前号までで検証したように、警視庁保安課の「気分」だ。つまり、なんの基準もない。彼らの「取り締まる気分」に対する分け入り方、研究方法は、人によって千差万別なので、いろんなメディアに取り組んでほしいところだ。やんないだろうけど。

▼ぼくは春画をめぐる警視庁保安課の「気分」が、「資本主義」とどう折り合いをつけるかに興味がある。以下は産経新聞デジタル版の10月18日付の記事。

〈春画に対する評価というのは時代とともに変わってきた。浮世絵全盛期の江戸時代には「風紀を乱す」として幕府の規制を受けた。以後、研究目的でも修正が必要とされるなど自主規制が続いてきたが、平成3年に学習研究社が無修正の画集を刊行して以降、事実上の“解禁”となった経緯がある。〉

この「平成3年」の学研の出版を実現した人物が、前号から紹介している白倉敬彦(しらくらよしひこ)氏だ。春画研究の突破口を開いた大功労者である。

で、平成3年=1991年以降、春画の出版はなんとなく浸透してきたわけだ。もともと「自主規制」だったしね。数年前、神保町の小宮山書店が週末にやってるガレージセールの3冊500円の棚で、たくさん春画の画集を買ったことがあるが、どこにも「18禁」と書いていなかった。これも白倉氏たちの仕事の恩恵だ。

▼浮世絵と同じで、春画もまた、海の外でまず評価され、そのあとに、この島国でも価値に気づく、という大きな流れだった。春画はようやく美術品としての売買も定着してきており、そのやりとりは国境を越えているのであって、警視庁はその資本主義の流れにまで手を突っ込み、棹差(さおさ)すだろうか。そんな度胸はないだろうナ。「気分」も乗らないしナ。

とはいえ、今回の永青文庫の春画展のカタログには〈18歳未満の方の目に触れませんよう、本書のお取扱いには十分ご配慮をお願い致します。〉と印刷された紙が挟まれていた。

永青文庫は、春画の出版は四半世紀も前にすでに解禁されているにも関わらず、今回は警視庁に配慮せざるをえなかったのだろう。なにしろ日本初の春画展だから、無理もない。「春画展を開く」という道をつくることが最優先だからね。警視庁に相談した時点で、警視庁からの相応の働きかけもあった。こうしたちぐはぐな現象から、春画はモロにグレーゾーンであることがわかって面白い。

すでに社会のすみずみまで、ゾーニングはだいたいできてるんだから、もういいんじゃないかなあ。わざわざ金を払って手に入れて見るんだからさ。そんなことより、児童虐待、児童ポルノ、JKビジネス対策等々に必死になって取り組んでいただきたい、マジで。「もし自分の子どもだったら」と思って。

書くのもバカバカしいが、物理的な「加害者」がいるんだよ、JKビジネスや着エロや児童虐待には。気分と脳内でコロコロ変わる無責任な「わいせつ」ワールドと違ってさ。前号の繰り返しになっちゃうが、若い女性、子どもに対する性暴力、搾取――それらの根っこにある貧困――を無くすための努力は、なぜ増えないのか。「社会問題」になっていないからだ。そういう問題は複数ある。これは「ニーズとニュース」というテーマで稿を改めて書く。

▼白倉敬彦氏の『春画の色恋 江戸のむつごと「四十八手」の世界』(講談社学術文庫)から、春画展の参考になる箇所を紹介しておきたい。

まず「はじめに」から、「色恋」という言葉について。色恋という言葉が示す世界は、言うまでもなく「性交」だけではない。実際に、春本、春画のなかには性交が描かれていない作品があり、そうした作品群を支えた生活感情を、白倉氏は「色恋」と定義したうえで、『春画の色恋』で的確に読み解いていくのである。


――――――――――
〈江戸時代のいい方でいえば、「江戸の性愛」とは、「江戸の色恋」といい換えた方がよいだろうと思う。いずれにせよ、性愛とは違って色も恋も情交を含んだ意味合いをもっていて、性と愛のように二分するわけにはいかないのだ。だから、色のうちにも恋があるように、恋にも当然色が伴うのだ。

いかにも色だけが目的のように見える売色の世界、とくに廓遊びの世界でさえも、人々が求めるものが恋=擬似恋愛と呼ばれたのも、当時の人々が色と恋とを分け隔てしていなかった所以である。第一、色を悪とは認識していない江戸人には、色と恋とを分離して考える必要もなかったろうし、そんなことを発想することもなかったのだ。

このことは、善悪の問題でもなんでもなく、江戸人はそのように考え、そのようにふるまっていたという事実を示しているにすぎまい。そして、それをどう見、どう評価するかは、現代に生きる我々の問題であることはもちろんだが、本書ではその問題意識をなるべく押さえ込んで、彼らの思考と行動、その表現の多彩な現れを追ってみようと思う。〉(3頁)
――――――――――


▼この冒頭で白倉氏は、近代以降の「性」と「愛」との二分法に拘(こだわ)っていては、江戸以前の春画文化に理会(りかい)できない、ということを確かめているわけだ。ふとNHKの「サラリーマンNEO」に出ていた「セクスィー部長」を思い出した。彼の名前は色香恋次郎(いろか・こいじろう)。つくづく傑作のネーミングだったナ。

▼先日、神保町の神田古本まつりが始まり、ちょっくら寄ってきた。ボヘミアンギルドの棚だったか、新品同様の網野善彦『日本中世の百姓と職能民』(平凡社)が500円で売っていたので、ついつい買ってしまい、上島珈琲店で頁をめくっていると、順徳天皇の「禁秘抄」(1221年に成立)に、〈「諸芸能事」として、第一に学問、第二に管弦、そして和歌をあげ、「好色の道、幽玄の儀、棄て置くべからざることか」〉という記述があるそうだ。

〈この書全体が、天皇の「職」に即した「芸能」「道」を説いているということもできる。そこに「好色の道」があげられているのは、興味深く、注目すべきであるが、貴族・官人の日記はこのようなそれぞれの家の「芸能」を子孫に伝えるものとして重視されたのである。(中略)「芸能」「道」「才」「職」が、前述したように、天皇・貴族・官人から多様な職能民にいたるまでのあり方を示すキー・ワードになったのは、このような職能の世襲・請負が広く社会をとらえ、国家の制度にまでなっていったからにほかならない〉(235―236頁)

面白いデス。順徳天皇が記した「好色の道」と、春画が示す「色恋」の世界と、双方の底流、そして数百年の間に無数に繰り返された弾圧・管理の歴史を探ると、とても興味深いニッポンの文化思想史、風俗思想史が見えてくる。その歴史のなかで、最も見えやすい弾圧の一つが、享保の改革だ。


――――――――――
〈あえて単純化していえば、日本での性意識は「色好み」の系譜であり、色恋の文化である。だからといって日本の文化を色恋で一貫していると主張するつもりはない。というのも、享保の改革ののちに出た多くの色道指南書は、ほとんど色に集中していて、恋を語ってはいない。たぶんそこに何らかの変質があったのであろうと考えられる。〉(『江戸の色恋』5頁)
――――――――――


▼享保の改革の前後で、春画の世界はどう変質したのだろう。白倉氏の指摘を読むと、現代との驚くべき共通項が見えてくる。適宜【】


――――――――――
〈禁令とか取締りとか、全ての規制は、いまだ潜在的であったものを顕在化せしめるのだ。禁じられたものが地下に潜れば、その部分は当然尖鋭化するであろう。色道指南書というのは、そうした流れの上での所産である。(中略)

その一つの具体的な例を挙げておこう。それは、組物にしろ、艶本(えほん)(絵本)にしろ、それを構成する図柄群において、非交合図と交合図との割合比率が変っていることである。

【享保の改革以前は、ほとんどの作品に刊記(奥付)がついていて、画師名、年号、版元名が列記されていたし、それを規制するものは何もなかった。にもかかわらず、非交合図の割合が高く、改革以後はそれが減少する。規制が生じることによって逆に交合図=色が増加するのである。】〉(6頁)
――――――――――


▼交合図とは、性交の場面だ。享保の改革によって、かえって性交しない場面が減って、性交の場面が増えた。しかし、享保の改革では、まだ「色」と「恋」との分離はそれほど進まなかった。


――――――――――
〈菱川師宣の時代が、春画にとって最も健康な時代であったろうと思われる。一つの転機は、享保七年(一七二二)の享保の改革にあった。好色本の禁止という事実は、逆にその好色なるものへの人々の意識を尖鋭化させた。

【いわば禁止というのは、その禁止した対象を内面化させるということであり、それがひとたび方途を示せば、たとえそれが徐々にではあっても知らず知らずの内にでも深化する。春画にとっては、享保の改革がその第一歩であった。】

たぶんそれは、色と恋との分離の第一歩でさえあったろう。しかし、江戸の春画にとって幸いなことに、この時期から京の西川祐信の影響が江戸に浸透して来、菱川の流れを西川に一変せしめたことが、その分離作用を薄めた。それは、「色好み」の本場からきた優美な遊びの感覚である。色恋はいわずとしても、色遊びの感覚は、それを補充するに充分であった。〉(349頁)
――――――――――


▼この西川の影響を受けた画師(えし)に、今回の春画展で強烈な印象を残す画師の一人、月岡雪鼎(せってい)がいる。鳥居清長の傑作「袖の巻」も、あの大胆なトリミングに影響を与えたのは雪鼎の先行作だったそうだ。

享保の改革の他に、もうひとつ大きな禁圧があった。寛政の改革である。続きを読んでみよう。


――――――――――
〈おまけに、祐信の影響をまともに受けた鈴木春信が、木版多色摺り、すなわち吾妻錦絵を創始することによって、江戸の浮世絵界を席捲したのだ。そして、この春信の影響が残るかぎり、色恋の世界はまだまだ生き延びえたといえよう。

そして生き延びえた色恋の世界が大きく変化するのは、一八〇〇年以降、すなわちその契機になったのはまたしても寛政の改革(寛政二年〈一七九〇〉)であった。(中略)

風俗のためにはよくないから「猥(みだり)かはしき事等勿論(もちろん)無用ニ候」(九月の御触)というのである。趣旨は享保の改革をそのまま受け継いだものだが、この「猥がはしき」が付け加わったことが大きい。

これは、色恋を猥がはしと見たのか、色事を猥がはしと見たのか、あるいは、色恋を描くことを猥がはしと見たのか、じつは判然としないのだが、その後の動きを見ると、色恋を描くことがやり玉に挙げられたようだ。色事を描いた春画のみならず、美人画に遊女や芸者の名を出すことさえも禁じたのだから、それに対するに春画は、よりいっそう色事に集中することになる。春画から恋も遊びも消えて行くのは、ごく当然の仕儀ではあった。〉(349-350頁)
――――――――――


▼お触書(ふれがき)――法律、条例の文言ひとつで、社会が変質する。現代との共通項を、春画の歴史から見出すことができる。


――――――――――
〈都市化、近代化、そして内面化は、禁止によって育まれて行く、といってもよかろう。なかでも性愛についての意識は、そのようである。江戸文化の変質、とくに性愛に関する部分は、別に春画に限らず、遊郭でも、そこを基にした文学でも、寛政の改革によって大きな変化をこうむったことだけは確かである。

【それだけに逆に、現代の我々から見ると、それ以降の文化の方がわかりやすくなったのも事実である。あるいは、それゆえに私にとってはあまり興味が湧かないともいえる。】

私は、私と似たものを見出して自分を確認するといった興味はほとんど持たない。何かしら自分と違ったもの、よくわからないものの方に好奇心が湧くし、それをいくらかでもわかろうとすることが楽しいのだ。私にとっての春画とはそういうものだ。〉(350頁)
――――――――――


▼現代の春画をめぐる状況に及んでこのあとがきは終わるが、末尾近くに、【「そうか、色恋とはいのちを恋(こ)うことか」とわかってしまえば、性愛ではなく色恋にこだわる私の立場もいくぶんかはわかってもらえるだろうか】という、とりわけ印象的な一文がある。

色恋とは「いのちを恋う」こと。この一言が白倉氏の真骨頂だ。「いのちを恋う」視点から春画展を眺めれば、これまでとは少し違った光景が目の前に現出するだろう。


▼今号の最後に、彼が2002年に訪れたフィンランドでの光景描写を引用しておく。二つめと三つめの【】は本文傍点


――――――――――
〈私は二〇〇二年十一月、フィンランドのヘルシンキ市美術館で開催された「春画展」に招待されて行ってきた(この展覧会は早川聞多氏と私とがキュレーターとして参画した)。

北欧では一九六〇年代の末にポルノグラフィが解禁されている。その結果、北欧ではその後三年ほどでポルノの産業が滅んでしまったことはご存じの通りだ。

そのような地での「春画展」、その反応に心が魅(ひ)かれた。会場には、子ども連れの夫婦や教師に引率された高校生の一群も訪れた。

【彼らの態度には、覗(のぞ)き見の姿勢がない。】禁止がない以上当然の結果であった。偏見なしに直視する、というのは、ある意味あっけらかんとした雰囲気で、あたかも江戸時代にでも帰ったかのような錯覚を生んだ。それは一言でいってしまえば、【いのち】の愛しさ、とでもいったものに通じる。私には、それを確認できただけで十二分に満足だったし、嬉しい体験であった。

私は、常日頃口にすることだが、ポルノに反対するのであればポルノを解禁しなさい、そうしたらポルノはなくなりますよ、という主張が、かの地では実現しているわけで、その風通しの良さを満喫した。

要するに、性愛と色恋の違いもそのあたりにあるのであって、そこにタブーが存在するかどうかの違い【だけ】なのだ。性は人間の日常の営みである。そろそろ性を特別視する観念から自由になってもよかろうではないか。春画を娯(たの)しむのも、そのことの一助になれば、とひそかに願っている。〉(352-3頁)
――――――――――


▼永青文庫の「春画展」に向かう人々のなかには、白倉氏が描いたような「あっけらかん」とした心性の持ち主が多いのかもしれない。国家の定める「わいせつ」を軽くスルーする知恵をもち、その「わいせつ」気分に右往左往するマスメディアの言説には価値を見出さず、大切な人とともに、あるいは独りで、手の届く範囲の文化を愛(め)でる人々。

それは「非社会的」な心性でもあるかもしれないが、いっぽうで生活感情と結びつく可能性も濃い。

「わいせつ」経由の「色」狂い役人の眼には、「春画展」に集まる人々の眼に映っている「色恋」の豊かな世界は、色褪せた、価値なき代物として映っているのだろうか。それとも彼らはいっぽうで他人の価値観をコントロールしようとしながら、もういっぽうで秘かに己(おの)が色恋を満喫しているのだろうか。

現代風俗にも、遥か古(いにしえ)の春画にも、「色恋」の驚くべき多様性が詰まっている。双方に挟まれて、近代国民国家の「わいせつ」ワールドはいよいよ萎(しな)びて貧しい。

▼次号では、アンドリュー・ガーストル氏の本を通して、「もじり」「やつし」を駆使した性にまつわる風刺文芸が、そのまま、不自然な秩序への見事な叛旗(はんき)となった実例を少しだけ見るつもり。取り上げるテキストは、永青文庫の「春画展」で11月1日まで展示されている「女大楽宝開(おんなだいらくたからべき)」である。(つづく)


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2015年10月24日土曜日

春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その3


【メディア草紙】1988 2015年10月24日(土)

■春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その3■


▼今号は、この週末に「あら、わたしも春画展行ってみようかしら。ちょっと遠いけど」と思う人が増えてほしいものだ、という内容です。

▼前号では思いつくまま、とりとめもなくメモしてしまった。前々号、前号のポイントをまとめると、

・永青文庫の「春画展」は素晴らしい
・しかし週刊誌に春画を掲載すると触法(2015年から)
・「猥褻(わいせつ)」のもともとの意味は「ふつうの人の普段着」
・ニッポンの権力は芸術や文化の価値判断にまで手を突っ込む

こんなところだ。

▼今号では、春画の豊かさが綴られた名著を紹介したいのだが、その前に前号の補足を二つだけ書いておくと、まず、警視庁から口頭指導を受けた4雑誌のうち、「週刊ポスト」が「春画は日本が世界に誇るべき伝統文化であり、芸術作品とあくまで考える」と書いているのだが、「誇るべき伝統文化だからOK」「芸術だからOK」という論理は、裏返せば「誇るべき伝統文化でなければ、芸術でなければ取り締まるのはOK」ということになる。そんな「上から目線」の価値観に堕落しちゃって、大丈夫なのか?

▼もうひとつは、この「口頭指導」がほとんど話題になっていないことが気になる。今回の警視庁保安課による威嚇は、永青文庫が勇気をもって開いた歴史的な春画展がきっかけなわけだが、そしてこの春画展の後援には、なぜか朝日新聞社と産経新聞社が名を連ねているのだが、なぜ自分たちの紙面でもっと大きく取り上げないのだろう? 両紙でタッグを組んで「公序良俗と自由」について特集すれば、もっと注目されて、もっと売り上げが上がり、もっと言論が豊かになるのに、不思議なことだ。

しかし、SNS(ソーシャル・ネットワーキング・サービス)に象徴されるように、情報共有のあり方が激変し続けている時代だから、春画を、つまり「文化」を楽しむ人々にとって、とっくにマスメディアはスルーされているのかもしれない。警視庁が定義する「文化」にいちいちぶつからなくても、誰かが立派なイベントをつくってくれれば、存分に楽しむだけの眼(まなこ)と術(わざ)とを、使いこなす人が増えているのかもしれない。


▼春画をめぐる名著の紹介に入りたい。

まず、三省堂書店神保町本店の4階に、春画特集の棚があり、そこで25000円の『大英博物館 春画』(小学館)が閲覧できるようになっているそうだ。前々号でぼくはダンボール箱に入ったままと書いていたので、訂正します。この大著は、大きな本屋だったら見れるようになっているかもしれない。現時点で本書に匹敵する春画本は見当たらない。

しかし、そんな高額の本は買えっこないから、手頃なものを、と探すわけだが、春画についていちばん手際よくまとめた一冊が、失笑してしまうが、文春新書の(笑)『春画入門』(車浮代氏)。

カラー図版が多く、でかいチンコ、でかいマンコがふんだんに掲載されている。編集長が自主処分された「週刊文春」と、この「文春新書」とを並べてみると、じつに滑稽(こっけい)だ。ついでに「文藝春秋」にも、自主処分された「週刊文春」に載ってるのとまったく同じ春画が掲載されている。

ということで、警視庁保安課の基準(2015年度、忖度〈そんたく〉含む)によると、春画掲載については「週刊誌はNG」「単行本はOK」(というか週刊誌以外はOK)ということになる。NHK朝ドラの「あさが来た」のセリフでいうと、「あほらし」の一言に尽きるが、こういうあほらしい成り行きなら、警視庁向けに、「週刊ポスト」のような「春画は誇るべき伝統文化なり!」「春画は芸術だ!」戦術で、どしどし既成事実をつくっていく人がいたほうが賢明なのかもしれない。文化の流れは、国家の歴史よりも遥かに長く、広く、深いものだから。実際、結果的に、現在の春画の「社会的地位」はそうやって確立されたのダ。

▼先に触れた『大英博物館 春画』に名を連ねる、錚々(そうそう)たる執筆者35人のなかで、ただ一人、どの学術機関の肩書きも立場も持っていない人物がいる。2014年に74歳で死去した白倉敬彦氏だ。今号と次号(たぶんネ)は、彼の遺した一冊の文庫本を紹介したい。彼はおそらく、誰よりも永青文庫の「春画展」を見たかったであろう人だ。残念ながら、その願いは叶わなかった。

白倉氏の執筆した本はどれも面白いが、最近、講談社学術文庫で復刊されたなかりの『春画の色恋 江戸のむつごと「四十八手」の世界』をオススメしよう。1300円+税。文庫も高くなりにけりだが、春画展に出かける前に一冊だけ読むとすれば、ぼくはこれがいいデス。いわゆる「四十八手」などを紐解きながら、四十八手という術語が本来は、いま思い込まれている「体位の種類」ではなかったことなどなど、様々なウロコを目から落としてくれる。

なにより深みがあるのは、彼の春画の「読み解き」なのだが、これは春画そのものを見ないと説明できないので、買って読んでいただくとして、本誌では「はじめに」や「あとがき」を読んでいきたい。

▼と、その前に、白倉氏が何をした人なのか、浅野秀剛氏の解説を引用しておこう。重要箇所に【】


――――――――――
〈白倉敬彦さんは、一九四〇年十月九日、北海道岩見沢の農場主の三男として生まれた。幼い頃に結核を患い、長い闘病生活を経験している。早稲田大学文学部仏文科に入ったが中退。編集者になった。以後、多様な企画に携わったが、最も多かったのは現代美術系の出版である。

春画との出会いは、一九九〇年から刊行された『人間の美術』全十巻(学習研究社)の編集制作に参画したときであった。

【シリーズ中の浮世絵編で、春画の局部がトリミングされることに憤った白倉さんが、翌年に手がけたのが『浮世絵秘蔵名品集』全四巻(学習研究社)である。完全無修正の春画復刻の魁であり、一冊二十万円の高額商品にもかかわらず、累計一万部を超す大ヒットになった。】(中略)

春画研究史における白倉さんの最大の功績は、『浮世絵秘蔵名品集』の出版であろうと私は考えている。その出版によって、春画出版史と春画研究史が大転換を遂げたからである。その第一は、すべての春画が無修正で出版されるようになったこと、第二は、若い女性も含めて、美術史の研究者が春画の研究をするようになったこと、第三に、春画の展示に道を開いたこと、第四に、春画の売買が普通に行われるようになったことである。〉
――――――――――


▼つまり、白倉氏がいなければ永青文庫の「春画展」もなかったといえる。彼は21世紀に入って数多くの本を世に出したが、「執筆」よりも「編集」で偉大な仕事を成し遂げた人だった。『大英博物館 春画』では、光の当たらない「昭和の春画研究者」の歴史について筆を執っている。

さて、彼が2011年に書いた「増補新版あとがき」から、「春画ブーム」論を引用しよう。警視庁保安課や文藝春秋の方々に熟読玩味(じゅくどくがんみ)していただきたい論考である。適宜【】と改行


――――――――――
〈昨今は、春画ブームだといわれたりするが、春画ブームといわれるのは、必ずしも今回に限らない。私たちが、無修正の春画本を出し始めてから二十年が経過した。その間にもいくつかの波があった。今回のブームといわれるものもその一つに過ぎまいと思う。

ただ目新しいところは、新聞や週刊誌が積極的に春画を採り挙げ始めた点だろうか。その意味では、春画の持つ意味が一般的にも認知されつつあるのかな、と考えられなくもない。(中略)

私たちは、春画を研究することによって、こうした江戸時代の感性や認識を知ることができるし、いささか膠着(こうちゃく)した西欧流の性意識を相対化して見ることもできるのだ。春画は、その意味では格好の文化資料であるといってよかろう。そうして、このようにある程度自由に春画を観(み)、研究することができるようになったのも、たかだかこの二十年来のことである。

西欧では、性革命とか性解放とかいって、性に関する表現は一九六〇年代後半より急速に緩和された。その点では、日本はまだまだ遅れているといえようか。もちろん、江戸時代からも大きく退化しているのだ。

【陰毛が見えたの性器が見えたのと、何かと喧(やかま)しい昨今だが、それらは皆人間の身体の一部である。そんなことよりも、現代日本の性文化における暴力や幼児虐待の方がずっと深刻なのに、そちらを等閑視(とうかんし)していて何をいっているのかと、海外の学者たちからも不思議がられ、不信の眼(め)で見られている。】

春画の特徴の一つに性器の誇大表現があるが、これも「笑い」に関わりのあることだ。これを見て笑えるかどうかが春画鑑賞の成否にかかっている。要するに、どれだけ余裕をもって春画を眺め得るかということになろう。〉
――――――――――


▼「現代日本の性文化における暴力や幼児虐待の方がずっと深刻なのに、そちらを等閑視していて何をいっているのか」という一言には、とても重みがある。JKビジネス、着エロ、児童虐待、取り締まるべき犯罪は、春画の他に、無数にあるんじゃねえのか? それらの取り締まりに対して鈍重なのは、畢竟(ひっきょう)、取り締まる側やローメイカー(法律をつくる人)たる国会議員が、それらの犯罪者と、子ども軽視、女性軽視、男尊女卑の志向性、嗜好性において、幾許(いくばく)かの通底する何かがあるからではないか、とつい勘ぐってしまうネ。畢竟(ひっきょう)、「女子供は票にならない」からではなかろうか、と。

▼白倉氏の春画ブーム論を続けよう。


――――――――――
〈明治以前の我々は、もっと屈託なく性に対していたし、それを愉しんでいたではないか。まずそのことを理解すべきではないか、といった点で、春画の持つ意味がようやくクローズアップされつつある、というのが、昨今の春画ブームの底流にあるものと思われる。

事実、日本人の性意識も、西欧の性解放からの影響か、あるいはそれからの脱却かは判別できないが、明らかに変化しつつあり、ある意味では江戸時代の日本人の性意識と共通する面が多々見られるようになった。そして、そこに春画への親近感が生じているのかもしれない、と思うのだ。

たとえば、女性の年下男好み、優男(やさおとこ)=草食系男子への志向、あるいは性愛における女性の積極性などは、つとに我々が春画の中に見出して来た特色でもあった。そして、明治以降喧伝されて来た「恋愛神話」や「処女崇拝」も消えつつある。さらにいえば、一部でもてはやされている「ボーイズラブ」なども、江戸の娘たちが「若衆」に注ぐ眼差しとほとんど同一ではないかとさえ思える。

西欧流の性意識のタガが緩むと、そこに見えて来たものは、案外と日本人の性意識の基層部分かもしれない。しかし、それを容易に日本回帰などとは呼ぶまい。一度近代を経験した以上、いくら類似しているからといって、我々の意識がそれ以前の江戸時代のそれと同じはずがないからだ。〉
――――――――――


▼2015年現在における「春画の価値」を描いた文章で、これに優るものを寡聞(かぶん)にしてぼくは知らない。春画展に行けば、上記の鋭い指摘の数々を、すべて現物を通して確かめることができる。(長くなるのでやっぱり続く)


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2015年10月22日木曜日

春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その2


【メディア草紙】1987 2015年10月22日(木)

■春画展余聞(よもん)、あるいは公序良俗と自由 その2■


▼別のことを書こうと思っていたが、相次いで続報が出たので、ちょっと補足。前号で引用した週刊ポストの記事をもう一度引用しておきましょう。


――――――――――
〈本誌編集長もこの1年の間に2回、呼び出しを受けた。

その際「以前から10数回にわたり本誌は春画を掲載してきたが、このような呼び出しを受けたことはない。警視庁の中で方針の変更があったのか」と問うたが、明確な返答はなかった。〉
――――――――――


▼この方針の変更の「種明かし」っぽい情報が10月19日以降、相次いで報道された。

警視庁から「口頭指導」された雑誌は「週刊ポスト」(小学館)、「週刊現代」(講談社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)、「週刊大衆」(双葉社)の4誌だったそうだ。以下は共同、読売、朝日の記事。共同の見出しが的確。


――――――――――
〈警視庁、春画で週刊誌4誌に指導 ヌードと同時掲載
2015/10/19 21:53   【共同通信】

江戸時代の春画と女性ヌード写真などを同じ号の別ページに掲載した「週刊ポスト」や「週刊現代」など週刊誌4誌の編集長らに対し、警視庁がわいせつ図画頒布に当たる可能性があるとして口頭指導していたことが19日、警視庁への取材で分かった。

警視庁によると、春画自体は違法な「わいせつ図画」ではないが、同じ号でヌード写真も掲載しており、わいせつ性が強調されると判断した。

同様の春画を掲載し、「編集上の配慮を欠いた点があった」として編集長を休養させている「週刊文春」については、ヌード写真の掲載がなかったため指導はしなかったという。〉
――――――――――


▼文春は「指導はしなかった」かわりに自主処分に至ったのかナ。


――――――――――
〈「春画」掲載の週刊誌4誌、警視庁が口頭指導
読売新聞 10月19日(月)19時7分配信

浮世絵師らが男女の性風俗を描いた「春画」を紹介するグラビア記事掲載を巡り、警視庁が8~9月、「週刊ポスト」(小学館)など週刊誌4誌に口頭指導していたことが、同庁幹部への取材で分かった。

ほかに指導を受けたのは「週刊現代」(講談社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)、「週刊大衆」(双葉社)。4誌はそれぞれ東京都文京区の「永青文庫」で開催中の「春画展」の一部作品をカラーで紹介するなどしていた。

同庁幹部によると、春画そのものは違法となる「わいせつ図画」に当たらないが、別ページで女性のヌード写真を掲載したり、掲載作品の一部が露骨に男女の性器が見える内容だったりしたことから、「わいせつ性が強調される」として配慮を求めたという。〉
――――――――――


▼どの記事でも、芸術性よりもわいせつ性が強調されていると警視庁が「判断」したってことが当然のように書かれているところがとてもおかしい。「芸術」と「わいせつ」との違いを、警視庁の役人が、なぜ「判断」できるのだろう。


――――――――――
〈警視庁、春画掲載4誌を指導 ヌード写真の近くで紹介
2015年10月20日19時09分 朝日新聞

人間の性愛を描いた浮世絵「春画」と女性のヌード写真を近いページに掲載したのは、わいせつ図画頒布罪に当たる可能性があるとして、警視庁が週刊誌4誌に「過激な内容を掲載しないよう配慮を求める」と口頭で指導した。警視庁への取材でわかった。

保安課によると、4誌は「週刊ポスト」(小学館)、「週刊現代」(講談社)、「週刊大衆」(双葉社)、「週刊アサヒ芸能」(徳間書店)。東京都文京区の「永青(えいせい)文庫」で開催されている「春画展」の作品紹介などを、ヌード写真と近いページで掲載していた。こうした内容は、春画の芸術性より、わいせつ性を強調したものになる、と警視庁は判断し、8~9月に各誌の担当者を呼んで伝えたという。講談社の広報室は「この件については一切コメントできない」としている。

他にも春画を扱った雑誌はあるが、捜査幹部は「歴史・文化的な価値が高いとの評価もあるため、春画そのものや芸術として扱っているものを取り締まるつもりはない」としている。〉
――――――――――


▼「歴史・文化的な価値が高いとの評価もあるため、春画そのものや芸術として扱っているものを取り締まるつもりはない」と捜査幹部が語っているわけだが、たとえ「歴史・文化的な価値が高」くっても、たとえ「芸術」でも、いくらでもわいせつな作品ってあるぜ? そもそも、わいせつも文化だよ? 芸術だよ? 警視庁が口にする「文化」とか「芸術」って、浅すぎ狭すぎじゃないか? って今に始まったことではないけどさ。

この捜査幹部の話が本当なら、「ヌードはOK」、「春画もOK」なのに(実際は「春画もOK」ではなかったが)、なぜ「ヌード+春画」だとNGになるのか、わからん。二つの融合によってなにか神秘が生まれるのか、とても不思議だ。

この警視庁幹部のコメントは、朝日の記事だとピンとがぼけているので、あとで産経記事を引用してもう少し考える。

▼朝日によると、各誌が呼び出しを食らったのは8月から9月。なぜ今ニュースにしたのかも気になる。NHKニュースには4誌のコメントが載っていた。


――――――――――
〈春画掲載の週刊誌4誌に警視庁が指導
10月19日 16時23分

警視庁は、「芸術性よりもわいせつな面が強調された掲載方法については、以前から指導を行っていて、今後も必要に応じて配慮を求めていく」としています。
.
警視庁の指導を受けた週刊誌4誌は、次のようにコメントしています。

「週刊ポスト」は、発売された誌面で「春画は日本が世界に誇るべき伝統文化であり、芸術作品とあくまで考える」としています。

「週刊現代」は、「一切コメントできない」としています。

「週刊大衆」は、「指導を受けたのは事実で、今後の誌面構成では配慮していきたい」としています。

「週刊アサヒ芸能」は、「警視庁から話があったのは間違いないが、それ以上はコメントできない」としています。〉
――――――――――


▼さて、警視庁保安課による「口頭指導」の根拠は刑法175条だ。


――――――――――
〈(わいせつ物頒布等)
第百七十五条  わいせつな文書、図画、電磁的記録に係る記録媒体その他の物を頒布し、又は公然と陳列した者は、二年以下の懲役若しくは二百五十万円以下の罰金若しくは科料に処し、又は懲役及び罰金を併科する。電気通信の送信によりわいせつな電磁的記録その他の記録を頒布した者も、同様とする。

2  有償で頒布する目的で、前項の物を所持し、又は同項の電磁的記録を保管した者も、同項と同様とする。〉
――――――――――


▼警視庁は現在、「春画と女性のヌード写真を同時に掲載したら刑法175条に触れる」と判断しているわけだ。

ここでアタマの体操だが、まず「ヌードだけ掲載ならOK」ですよね。で、「春画だけでもOK」という建前だが、実際は「春画だけ掲載なら自主処分」(文春)になる。ということは、「やっぱ春画掲載はダメ」ということになる。

ここで、冒頭に引用したポストの記事が考えるヒントになる。ポストは、警視庁に呼び出された際、「以前から10数回にわたり本誌は春画を掲載してきたが、このような呼び出しを受けたことはない。警視庁の中で方針の変更があったのか」と質問している。

つまり、2014年までは「春画掲載はOK」だったのに、2015年時点ではアウトになった。基準が変化したのだ。(ただし、ポストが春画を掲載した10数回が、ヌードと同時に掲載だったのか、春画のみの掲載だったのかは未確認。)

もしも、今回「ヌードと春画の合わせ技」で口頭指導を受けた4誌が、もともとヌード禁止の文春のように、「春画だけ掲載」していたらどうなっていたのだろう? 徹底的にカラーで春画のみの特集を組んでいたら? やっぱり文春のように、結果的に御上(おかみ)の鼻息を忖度(そんたく)したかたちで、自主処分するという無様(ぶざま)な仕儀(しぎ)と相成(あいな)るのだろうか。それとも新たな突破口になっていたのだろうか。

▼何度も本誌で書いてきたことだが、「わいせつ」って書かれても全然「わいせつ」だと感じない。ちゃんと「猥褻」って書かないとネ。で、そもそも「猥褻」を取り締まるという了見が気に入らねえ。

猥褻とはもともと、「常民の普段着」という意味である(竹中労「『猥褻』とは何ぞや?」『猥褻の研究』三一書房)。「わいせつを取り締まる」という振る舞いそのものが、猛烈な「上から目線」なのだ。失礼な話だよ。だから気に入らねえ。

そして、いまのニッポン社会で「猥褻(わいせつ)か否か」を決める基準は、裁判官や警察幹部が「俺が猥褻だと思ったら猥褻なのダ。それでいいのダ」というものである。つまり「基準」は「その場の気分」だ。彼らはその「気分」に「良識」という名前をつけ、「正義は我にあり」と澄ましておる。

また、「わいせつ」という珍妙な言葉の特徴は、「被害者」がいないのに「加害者」をつくりだし、罰することができうるところにある。その構造がよくわかるのが、下記の産経記事デス。


――――――――――
〈産経新聞 10月19日(月)14時58分配信 加藤園子記者

(前略)捜査関係者は、今回の指導は、春画単体での評価ではないことを強調し、「春画は国際的な評価も高く、文化的・芸術的価値がある。春画そのものを問題にする気は全くない」と言い切る。

(中略)捜査幹部は「春画を描き写しただけのイラストでも、文化的価値がないと判断すれば、わいせつ物と判断する可能性もある。著名な画家の作品かなど総合的に考慮する」と話している。〉
――――――――――


▼先にちょっと触れた「芸術性よりもわいせつな面が強調された」云々という「判断」と関係するが、そして、「春画を描き写しただけのイラストでも、文化的価値がないと判断すれば、わいせつ物と判断する可能性もある。著名な画家の作品かなど総合的に考慮する」という考えは、今に始まった代物ではないが、あらためて熟読すると恐ろしいものがある。

「文化的価値」を警視庁の役人が判断できる、という考えは、ヒトラーやスターリンの恐怖政治となじみ深い発想だからだ。「心を打つ『政策芸術』を立案し、実行する知恵と力を習得すること」を目的に掲げている自民党の「文化芸術懇話会」との親和性も、とても高い。

▼捜査幹部は、取り締まる基準として「文化的価値」とか「著名な画家の作品か」とか御託を並べているが、これは賭博(競馬競輪、パチンコなど)や売春(個室付浴場)を使ってグレーゾーンをつくり、利権をコントロールする警察お馴染みの手口のようにも見える。しかし、春画がそんなにでかい利権になるわけでもないし、自分たちの縄張りを狭めないために、口頭指導という形式で歯を剥き出して威嚇しているだけなのか、よくわからない。

警視庁はいまや社会の「良識」に従って春画は芸術だと認めざるをえないから、ヌード写真との「合わせ技」で圧力をかけたのだろうか。各記事を眺めていると、「日本の歴史上初めての本格的な春画展」という「まったく新しい動き」に対して、警視庁保安課の「気分」は、もしかしたら「イラついている」のかもしれない、とも感じる。どこかの出版社に、春画とヌード写真を並べた単行本をつくって社会実験してほしいものだ。

▼警視庁の影響力は、永青文庫の「春画展」そのものにも及んでいる。以下は「春画展」の発起人の一人、浦上満氏のコメント。


――――――――――
〈日刊スポーツ 10月18日(日)14時7分配信
春画は、性器部分が露骨に描かれていることもあり、刑法175条の「わいせつ」物にあたる懸念がある。警視庁にも事前に相談した上で、年齢制限を設けた。浦上氏は「個別の作品に対する(わいせつの)判断は求めなかったが、『やり過ぎないように』との忠告があった」と明かす。〉
――――――――――


▼「やり過ぎないように」忠告って、やっぱグレーゾーンをつくるいつもの手口っぽいよなあ。基準がないもんなあ。

で、永青文庫の「春画展」は18才未満入場禁止になり、4000円の分厚いカタログの表紙を開くと、まず目に飛び込んでくるのは挟まれた一枚の紙だ。そこには〈18歳未満の方の目に触れませんよう、本書のお取扱いには十分ご配慮をお願い致します。〉と印刷されている。ニッポンでは、すでに何年も前から、何種類も無修正の春画の本が出ているにもかかわらず、このカタログは18禁なのだ。やっぱり基準は「気分」であることがよくわかる。

警視庁保安課は、主催者にそんな「配慮」をさせるより他に、もっとやることがあると思う。たとえばきのう、こんなニュースがあった。


――――――――――
〈JKビジネスと子どもの着エロ「児童福祉法で禁止して」NPOなど11団体が国に要望
弁護士ドットコム 10月21日(水)19時25分配信

女子高生等による「JKビジネス」や、15歳未満の児童を写した「着エロ」を規制するよう求めるNPO法人など11団体が10月21日、塩崎恭久厚労大臣宛てに要望書を提出し、厚労省で記者会見を開いた。

売春によって傷ついた少女から相談を受けているというNPO法人ライトハウスの藤原志帆子代表は「子どもたちの性が簡単に売り買いされ、法律や社会が子どもたちを守ってくれない現状がある」と指摘し、法規制の強化を訴えた。

今回の要望書では、「『着エロ』や『ジュニアアイドル』ものとして、幼稚園や小学校低学年の子どもの半裸や水着姿の写真集やDVDが公然と販売され、これらの子どもたちに『握手会』や『撮影会』と称して多くの男性が群がるという異常な事態が生じている」などと指摘し、法規制を求めている。

着エロは業者などが児童ポルノ法違反で検挙されている事例もあるが、今回の要望書では15歳未満の児童を被写体にした半裸・水着姿などの「着エロ」については、児童福祉法違反とすべきだと主張している。〉
――――――――――


▼週刊誌における春画とヌードの合わせ技は刑法175条に触れるぞ、と「口頭指導」するよりも、かつてない惨状を呈しているJKビジネスや着エロを本気で取り締まるためにその優秀な頭を使ったほうが、百万倍、ニッポン社会のためになる。たかだかオッサン連中がチラチラ眺めるだけの週刊誌に載った春画と、女の子の人生を台無しにするJKビジネスや着エロと、どっちが「わいせつ」だって話だよ。まともに働いてくれよ警視庁保安課。


▼「わいせつ」は、その「対象そのもの」にではなく、対象との「関係」によって生まれる。すべての「価値」がそうであるように、「わいせつ」もまた「関係」によって生まれる「価値」だ。この点を踏み外すと、頓珍漢なことになる。

もう長くなったから終わるが、最後にもうひとつアタマの体操を書いておきたい。永青文庫の春画展に来館する多くの若い女性客と、週刊誌の春画を「わいせつ」視する警視庁保安課の役人と、どちらの視線のほうが「わいせつ」だろうか?

ちょっと問い方を変えてみよう。JKビジネスや着エロによだれと精液を垂れ流しているオッサンと、「春画プラスヌード写真はわいせつだからダメよダメダメ」と口頭指導する警視庁保安課の役人と、その視線の「わいせつ」さ加減において、どういう違いがあるだろうか?

また、(1)春画展の客と、(2)JKビジネスの客と、(3)警視庁保安課の役人と、三者を並べた時、(3)は(1)に近いだろうか? それとも(2)のほうに近いだろうか?



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2015年10月19日月曜日

春画展余聞(よもん) あるいは公序良俗と自由 その1


【メディア草紙】1986 2015年10月19日(月)

■春画展余聞(よもん) あるいは公序良俗と自由 その1■


▼先日、東京の永青文庫に大英博物館が協力して開催中の「SHUNGA 春画展」に行ってきた。満員大入りの大盛況。絵師たちの圧倒的な技量、男女平等や女性の歓びの表現、高度な印刷技術、ユーモアと知恵の数々に感動した。日本初の本格的な春画展ということで、4000円もするカタログまで買ってしまった。

▼カタログを読むと、春画についてロンドン大SOAS教授のアンドリュー・ガーストル氏が簡潔に定義していた。いわく「春画は身分や年齢を問わず男女ともに有用であり、その上、笑いの要素を含んだ気楽な娯楽である」と。

江戸時代の春画には、こう書かれている。【】は引用者。

「枕絵(春画の異称)は、嫁入のとき第一の御道具也。男とても持たでかなわぬ物なり。そのいわれを尋ぬるに、【人の心を喜ばしむるゆへなるとかや】」

▼ガーストル氏の定義は見事だ。春画は娯楽である。国家による「管理」に利用される「ポルノ」で括(くく)れないし、「芸術」でも括れない。人の心を喜ばせようとする娯楽であり、それを芸術として見る人もいるし、ポルノとして見る人もいるわけだ。

ガーストル氏の解説の末尾。〈新政府の樹立、列強国との外交や交流を通じて、20世紀には春画は完全なるタブーとなった。そして近代を通じ、現代でもほんの数十年前まで、春画の鑑賞は地下へ潜らざるを得なかった。21世紀の今日、春画へのタブー視を取り払い、永青文庫の「春画展」を多くの人々が、江戸時代のように気楽に笑いながら穏やかな気分で、「人の心を喜ばしむる」ものとして春画を鑑賞できれば素晴らしい〉

東京に行く用事のある方は、ぜひとも立ち寄ることをオススメします。若い女性がとても多かった。期間中、第1期から第4期まであり、展示品はその都度、入れ替えられる。ぼくは取り敢えず第1期に行ったが、できれば後半も行きたいですナ。有名な葛飾北斎の大蛸の絵には、「えっ、こんなに小さいの。しかも一枚の絵じゃなくて、一冊の本の中の見開きなの」と驚かされた。

別館の売店で、2013年から2014年にかけて大英博物館で行われた春画展の日本語訳カタログが閲覧できる。買うと25000円もする代物で、三省堂書店本店の1階に在庫があったが、ダンボール箱に収められていて表紙すら拝めない状態だった。今回の春画展は、その25000円のカタログからうかがえる圧巻の展示内容とは比ぶべくもないが、とにかく日本初の展覧会である。快挙を成し遂げた永青文庫と細川元総理に拍手。

▼この春画展に合わせて、「週刊ポスト」の10月30日号に興味深い記事があった。


――――――――――
〈警視庁は春画を「わいせつ図画」だとみなし、本誌を含め春画を掲載した週刊誌数誌を呼び出し、“指導”を行なっている。本誌編集長もこの1年の間に2回、呼び出しを受けた。

その際「以前から10数回にわたり本誌は春画を掲載してきたが、このような呼び出しを受けたことはない。警視庁の中で方針の変更があったのか」と問うたが、明確な返答はなかった。〉
――――――――――


▼基準は「気分」なんじゃないかと思うが、よくわからない。

もうひとつ、週刊文春の編集長が処分されたという報道があった。共同と毎日から。


――――――――――
〈春画掲載めぐり編集長休養 週刊文春「配慮欠いた」
2015/10/09 00:28   【共同通信】

文芸春秋は8日、「週刊文春」が掲載した春画のグラビア記事に「編集上の配慮を欠いた点があった」として、同誌の新谷学編集長を3カ月間休養させることを明らかにした。

春画が掲載されたのは週刊文春10月8日号(1日発売)。東京都文京区の「永青文庫」で開催されている「春画展」を紹介する内容で、喜多川歌麿や葛飾北斎らの計3作品をカラーで掲載した。読者からのクレームを受けた対応ではなく、社として「読者の信頼を裏切ることになったと判断した」という。

同社は編集長を休養させたことについて「読者の視線に立って週刊文春を見直し、今後の編集に生かしてもらう」と説明している。〉
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〈週刊文春:新谷編集長が休養 「春画グラビア記事で問題」
毎日新聞 2015年10月08日 23時20分(最終更新 10月09日 12時30分)

文芸春秋は8日、1日発売の週刊文春10月8日号に掲載した春画のグラビア記事に問題があったとして、同誌の新谷学(しんたに・まなぶ)編集長(51)を同日から3カ月間、休養させることを明らかにした。

同誌では、東京都文京区の「永青文庫」で開催中の江戸時代の性風俗を描写した浮世絵「春画」の特集を組み、3点を巻末の6ページのカラーグラビアで掲載した。同社は「グラビア記事に編集上の配慮を欠いた点があり、読者の信頼を裏切ることになったと判断した」とコメントした。

読者からのクレームを受けての対応ではなく、社として自ら判断したという。〉
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▼「社として自ら判断」ということだが、「読者の信頼を裏切」ったという判断と矛盾しないのかな? 文藝春秋のコメントはJ-CASTニュースによると

「『週刊文春』10月8日号(10月1日発売)に掲載した春画に関するグラビア記事について編集上の配慮を欠いた点があり、読者の皆様の信頼を裏切ることになったと判断いたしました。週刊文春編集長には3か月の間休養し、読者の視線に立って週刊文春を見直し、今後の編集に活かしてもらうことといたしました」

というものだったそうだ。

▼二つの点で不思議だ。まず、なぜ今回、警察が「指導」したのだろう。なぜ今回、文藝春秋は週刊誌の編集長を「処分」したのだろう。

▼永青文庫の春画展の3階に関連年表があった。4000円もするカタログには載っていなかったので、現地で見るしかないのだが、その年表は9世紀から始まる。

〈834-842頃(承和元-9)/恒貞親王に、ある人、偃息図(おそくず)を進上〉

「偃息図」ってのは春画の古語だ。親王は天皇の息子。娘なら内親王ですね。つまり、【春画の最も古い記録は、天皇家とともにある】のだ。年表の続きを見ると、〈1321(元亨元)/『稚児之草紙』〉とある。この「稚児之草紙」は今回の春画展でも出品されているが、男色の春画だ。

▼さらに、今から600年ほど前の1438年=永享10年、宮廷で「源氏物語」のパロディ春画が描かれている。

〈後花園天皇、偃息図(おそくず)の源氏絵を制作 天皇と父、伏見宮貞成親王、詞書染筆〉

他の資料も調べてみると、後花園天皇の20歳の記念に、天皇のおとっつぁんが宮廷絵師に命じて描かせ、詞書、つまり春画の情景描写の文章は、父と息子が共同で執筆したみたい。ぼくは現物を見たことはないが、「看聞御記(かんもんぎょき)」という宮内庁が所蔵している見聞記に、そういう史実が記録されているそうだ。

天皇を象徴として戴く国の警視庁や、文藝春秋というニッポンを代表する出版社が、なぜ天皇にゆかりのある文化たる春画を載せたことで「指導」したり、その雑誌の編集長を3カ月の「休養」処分にしたりするのか、さっぱりわからない。

まさか、警視庁や文藝春秋といった立派な組織が、1000年を優に越える皇族由来、ニッポン由来の文化・伝統を、たかだか150年ほどの蓄積しかない脱亜入欧の浅知恵で断罪し、否定するはずがないので、とても不思議だ。

▼もうひとつ、ちょっと時間を遡(さかのぼ)って不思議なことがある。2013年、週刊文春は「緊急アンケート 安藤美姫選手の出産を支持しますか?」という恥知らずな企画を行ない、抗議を受けて編集長名で謝罪したことがある。そのとき編集長だった新谷学氏が、今回、3カ月の「休養」処分を受けたわけだ。

なぜ、「読者の皆様の信頼」を大切にする文藝春秋は今回、読者からのクレームのない状態で編集長を3カ月の「休養」処分にして、読者からの猛烈な抗議のあった2013年には、新谷学編集長を3カ月の「休養」処分にしなかったのだろう。また、なぜ「出産を支持しますか?」などという、いま生きている女性に恐怖を与え、人権を蹂躙する愚劣極まりない企画を決裁したのだろう。

とても不思議だ。

▼「コンビニからクレームが来たから週刊文春の編集長を処分した」という噂もある。それが事実なら、スッキリ納得できる。「資本主義」の原理に忠実だからだ。(この項つづくかも)


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2015年10月14日水曜日

イスラム国と核兵器と第2イスラム国


【メディア草紙】1985 2015年10月14日(水)

■イスラム国と核兵器と第2イスラム国■


▼「核」と「イスラム国」が同じ見出しに入っている新聞記事を初めて読んだ。10月8日付けのジャパンタイムズの1面に、

Nuclear smugglers seek sales to Islamic terrorists

という見出しで、APの記事が載っていた。モルドバの首都、キシナウのダンスクラブ兼スシバー(寿司!)が闇取引の舞台だったそうだ。


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AP INVESTIGATION: Nuclear black market seeks IS extremists

By DESMOND BUTLER and VADIM GHIRDA
 Oct. 7, 2015 3:45 PM

CHISINAU, Moldova (AP) — Over the pulsating beat at an exclusive nightclub, the arms smuggler made his pitch to a client: 2.5 million euros for enough radioactive cesium to contaminate several city blocks.

It was earlier this year, and the two men were plotting their deal at an unlikely spot: the terrace of Cocos Prive, a dance club and sushi bar in Chisinau, the capital of Moldova.
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▼このAP通信の記事は日本語メディアで後追いされていた。以下は共同とCNN。


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〈2015.10.8 09:45 産経
ロシア「大佐」が暗躍? 中東へ放射性物質の売却狙う モルドバ当局が阻止4回

旧ソ連のモルドバで、ロシアとつながりのある犯罪グループが、「汚い爆弾」の原料となる放射性物質を中東の過激派に売却しようと計画、過去5年間にモルドバの捜査当局が少なくとも4回取引を阻止していたことが分かった。AP通信が7日、報じた。

モルドバ捜査当局は、米連邦捜査局(FBI)と協力し取り締まりを継続。最近では今年2月、大量のセシウムを過激派組織「イスラム国」の関係者に売りつけようとしていたのを阻止した。

2011年には、グループの指導者で「大佐」と呼ばれる男が、兵器級の濃度を持つウラン235と汚い爆弾の設計図をスーダン出身の男に売ろうとしていた。APによると、モルドバ当局は「大佐」がソ連国家保安委員会(KGB)の後身であるロシア連邦保安局(FSB)に属しているとみている。「大佐」は既に逃走したという。(共同)〉
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▼次はCNN。最後の段落の記事が恐ろしい。


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〈モルドバでウランなど核密輸を3度阻止、米FBI支援で
2015.10.08 Thu posted at 17:51

(CNN) 旧ソ連のモルドバのオレグ・バラン内相は7日、米連邦捜査局(FBI)がモルドバでのおとり捜査などで過去5年で3度にわたり核や放射性物質の密輸阻止を支援していた事実を明らかにした。

この捜査の推移に詳しい米治安執行機関当局者は、密輸の企てにイスラム過激派は絡んでいなかったと述べた。ただ、核物質が「イラク・シリア・イスラム国(ISIS)」などの過激派に売却される懸念があったとも明かした。

モルドバでの事例は、兵器転用の恐れもある核物質が闇市場で売却されることを防ぐ努力の一端を垣間見せたとも説明した。

同国での事件摘発は、AP通信が最初に報じていた。

米国務省のカービー報道官は、モルドバでの事件捜査でロシア当局とも協力したと述べた。捜査の詳細や続行の有無などは明らかにしなかったが、今回のような問題はロシア当局と通常連絡し合っていると語った。

(中略)バラン内相はFBIが捜査に協力して摘発した3件の内容を説明。直近の事件では今年2月、モルドバの首都キシニョフで放射性物質セシウム135を500グラム売り付けようとしていたモルドバ人2人を逮捕していた。同物質83グラムを見本として10万ユーロで売りさばいたことを突き止め、逮捕につなげていた。

この他、2010年7月と11年にも密輸を阻止。11年の事件では、モルドバ独立派の活動が続く地方で入手したウラン235約1キロの売却を謀っていた7人を逮捕していた。この事件ではおとり捜査官にウラン235の少量を売り付けていたという。

国際原子力機関(IAEA)によると、核もしくは放射性物質の盗難や紛失は1993年から2013年の間に計664件発生。このうち最終的に売却された件数は不明となっている。
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▼10月10日、トルコの首都アンカラで自殺テロが起き、エルサレム旧市街(イスラム教とユダヤ教の聖地)も、先月からとても緊迫している。どうも、想像が追いつかない事態が起こっている。

パラパラと立ち読みした本に、今後、イスラム国が化学兵器を持つケースが最悪だと書いてあったが、すでにそうなっている。先に引用したジャパンタイムズと一緒に売っているINYTの、同じく10月8日付の1面トップは、イスラム国が化学兵器を使っているという記事だった。

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8 Oct 2015 International New York Times Asia
BY C. J. CHIVERS

The results of an ISIS chemical attack
Shelling leaves a family in Syria experiencing agonizing pain and loss
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▼イスラム国をめぐるニュースには、悪いニュースしかない。

INYTの9月28日付には、

Thousands Enter Syria to Join ISIS Despite Global Efforts

という記事が載っていた。2011年以降、100カ国から3万人が、イスラム国の兵士として、イラクやシリアに入っているという。


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By ERIC SCHMITT and SOMINI SENGUPTASEPT. 26, 2015

President Obama will take stock of the international campaign to counter the Islamic State at the United Nations on Tuesday, a public accounting that comes as American intelligence analysts have been preparing a confidential assessment that concludes that nearly 30,000 foreign fighters have traveled to Iraq and Syria from more than 100 countries since 2011. A year ago, the same officials estimated that flow to be about 15,000 combatants from 80 countries, mostly to join the Islamic State.
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▼イスラム国が使っている生物兵器も、使うかもしれない核兵器も、100カ国から集まっている3万人のイスラム国兵士も、悪い夢ではない。ニッポンにできることは何だろう。

産経新聞9月16日付に、佐藤優氏のこんな提言が載っていた。


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〈中国については尖閣をめぐる議論。中国の海軍による拡張主義の産物。中国海軍は日清戦争を最後に本格的な近代戦をしていない。だから行け行けどんどんで勇ましい。それに対して陸軍はすごく慎重。中越戦争で大負けしているからだ。

中国は大陸国家。弱点は西にある。タジキスタン、キルギスタンと、新疆ウイグル自治区がつながる形で第2イスラム国ができる可能性が現実にある。それが回族に広がり、中国の3分の2くらいがガタガタになる危険性がある。

日本はその点について中国とインテリジェンス協力を進められれば、中国は海上での冒険政策はできなくなる。双方にプラスになる戦略対話を行うことで、早く中国の海軍を引かせることができる。こういうシナリオをとるべきだ。〉
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▼朝日新聞の10月2日付には、イスラム国の元戦闘員3人(いずれもシリアで拘束中)に対するインタビューが載っていた。

3人の出身地が興味深い。このうち22歳の元戦闘員は〈キルギス第2の都市オシ出身。イスラム教スンニ派の家庭に育ち、2011年、スンニ派の最高学府、エジプト・カイロのアズハル大学に進学。イスラムの指導者を目指し、イスラム法学などを学んでいた。13年春、カイロ郊外のモスク(イスラム礼拝所)で過激派と出会い、「スンニ派を虐殺するアサド政権打倒を」と、シリアでの「ジハード」に誘われた。〉

もう一人(20歳)もキルギス出身。3人目(35歳)は〈トルクメニスタンの首都アシガバートでタクシー運転手をしていた〉。2013年2月に、いとこから誘われたという。

つまり、キルギス、キルギス、トルクメニスタンだ。第2イスラム国は絵空事ではないと感じさせる記事だった。

▼佐藤氏はいま、この「第2イスラム国」の危機を繰り返している。たとえば「WiLL」2015年9月号。〈日本は、中国と新疆ウイグル自治区、中央アジアを横断する「第二イスラム国」形成の危険性について、戦略対話を行うことが重要だと僕は思う。西部国境方面におけるイスラム原理主義過激派の台頭を阻止することで中国と協力することは、日本の国益にも適うはずだ〉(「猫はなんでも知っている」)

この号で佐藤氏は、あえてかなり深いところまで踏み込んだ情報を明かすことによって、「この件、ほんとにヤバイんだよ」というメッセージを発信している。くわしくは本物を手にとってみられることをオススメする。この連載は佐藤氏本人ではなく、佐藤氏の飼い猫が執筆し、飼い主のパソコンから旬の情報を公開するかたちをとっているので、面白い。

▼また、ずいぶん前にたまたま放送大学を見て、たまたま放映していた伊勢崎賢治氏(名著『武装解除』の著者)の講座で初めて知ったのだが、「セカンドトラック」という外交形態がある。非公式だが、実効力のある、民間外交のことだ。

たとえば伊勢崎氏がこれまでパキスタンなどで尽力してきたような、彼我の「大学」を拠点にしたセカンドトラック外交の場をつくれないものだろうか。

首相官邸は、そもそも「国家」だけでは対応不能の出来事が、今、起きている、という現実に気づいているだろうか。


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2015年10月12日月曜日

文系廃止の「ご説明」


【メディア草紙】1984 2015年10月12日(月)

■文系廃止の「ご説明」■


▼毎日新聞の9月27日付に、〈文系廃止通知 ミスでした/真の対象 教員養成系のみ/国立大巡り文科省 釈明に奔走 撤回はせず〉という記事が載っていた。

〈国立大学の人文社会科学系学部の改組や廃止を求めた通知が波紋を呼び、文部科学省が「火消し」に躍起になっている。6月8日付の文科相名の通知に学術界やマスコミから「文系軽視だ」と批判が上がったため、役所の担当者が「誤解です」とあちらこちらに説明に奔走している。だが通知は英訳され海外にまで広がっており、通知の出し直しを求める声も上がっている。【三木陽介】〉

▼どんな通知だったのか、再読しておこう。


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〈通知「国立大学法人等の組織及び業務全般の見直しについて」(今年6月8日、抜粋)

「ミッションの再定義」で明らかにされた各大学の強み・特色・社会的役割を踏まえた速やかな組織改革に努めることとする。

特に教員養成系学部・大学院、人文社会科学系学部・大学院については、18歳人口の減少や人材需要、教育研究水準の確保、国立大学としての役割等を踏まえた組織見直し計画を策定し、組織の廃止や社会的要請の高い分野への転換に積極的に取り組むよう努めることとする。〉
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▼どう読んでも、人文科学、社会科学の学部、大学院が「廃止」の対象になっている。また、この通知を書いた人の脳の中では、人文・社会科学は「社会的要請が低い」という前提に立っていることがモロ出しになっている。本文記事を読んでみよう。


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〈「人文社会科学系の廃止を心配していたが、説明を聞いて、そうではないと分かってほっとしている」。今月18日、「科学者の国会」と称される「日本学術会議」の大西隆会長(豊橋技術科学大学学長)は安堵(あんど)の表情を浮かべた。学術会議は7月に「人文・社会科学の軽視は大学教育全体を底の浅いものにしかねない」と声明を出していた。

この日開かれた学術会議の幹事会で、文科省の担当局トップ、常盤豊・高等教育局長が30分間にわたって通知の「真意」を説明した。その趣旨はこうだ。

「大学は、将来の予想が困難な時代を生きる力を育成しなければならない。そのためには今の組織のままでいいのか。子どもは減少しており、特に教員養成系は教員免許取得を卒業条件としない一部の課程を廃止せざるをえない。人文社会科学系は、専門分野が過度に細分化されて、たこつぼ化している。養成する人材像が不明確で再編成が必要だ」

局長からの説明を受けた大西会長は報道陣に「改革の必要性はその通り」と話し、理解を示しつつもこう付け加えた。「通知を何度読み返してもそうは理解できない」〉
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▼ラストの一文がまるで落語みたいになっているが、この大西氏にあっては、たかだか30分の説明で「ほっとしている」などと呑気なことを言い出す場合ではないことを覚(さと)っていただきたいところだ。

▼教員養成系の一部を廃止するってのは、まだわかる。教員養成を目的としているのに、教員免許を取得しなくても卒業できる場合があるからだ。

しかし文科省の官僚たちは、教員養成系に使っていた「廃止」という表現を、一気に拡大したわけだ。


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〈通知の経緯は、文科省が大学側と協議しながら2012年度から進めてきた「ミッションの再定義」と呼ぶ作業にさかのぼる。各大学・学部の強みや役割を整理する狙いだった。そして文科省が昨年7月にまとめた文書は、教員養成大学・学部の一部の課程について「廃止を推進」と明記した。人文社会科学系には「組織のあり方の見直しを積極的に推進」としていて、「廃止」の文字はなかった。

今年6月に大学向けに出した通知は、人文社会科学系を「廃止」の対象に含めてしまい、大きな反発を招いた。文科省幹部は「通知を作った役人の文章力が足りなかった」とミスを認め、自身の名で出した下村博文文科相は今月11日の記者会見で「廃止は人文社会科学系が対象でない。誤解を与える文章だったが、(通知の)一字一句まで見ていない」と釈明した。

日本学術会議の大西会長は「通知を取り換えた方がいい」と話すが、文科省は撤回して再通知する予定はないという。ある文科省幹部は「組織を『見直す』場合も、手続き上はいったん『廃止』してから『新設』する。通知は間違いと言いきれない」と強弁する。〉
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▼「役人の文章力」が足りない、などということはありえない。役人の存在証明は「公文書を作成すること」だ。また、「通知を作った役人の文章力が足りなかった」ことではなく、そんな文章力の低い通知に「決裁を出した上司の文章力が足りなかった」ことがミスのはずだ。しかし、上司のチェックミスもありえない。

そして、この通知は撤回されない。つまり、彼らの目的は、いま社会的に危惧されているとおり、「国立大学における人文科学、社会科学の学部、大学院の廃止」なのである。だから通知を撤回しないのだ。それ以外に、論理的な理由が見当たらない。

教員養成系の廃止に乗じて「やっちまえ」という魂胆だ。この通知は「ミス」などではさらさらなく、たとえば、「等」を入れれば文脈そのもの、法律そのものの意味が変わることで有名な「霞ヶ関文学」の劣化版だと考えたほうが理に適(かな)う。一片の知恵も、工夫のかけらもない、剥(む)き出しの本音がこの通知には記されている。その意味で、「通知を作った役人の文章力が足りなかった」(文科省幹部)わけだ。

毎日の記事は、文科官僚の「強弁」を記録している。この強弁のとおり、文科官僚は、通知を撤回せず、公文書原理主義に則って、ありとあらゆる手を使い、人文科学、社会科学の学部廃止を進めるはずだ。

30分の「ご説明」は猿芝居だ。常盤豊高等教育局長は、日本学術会議の大西隆会長のことを、「ものわかりのいい馬鹿だな」と鼻先で嗤(わら)っているだろう。

▼この人文科学、社会科学系を廃止する動きについて、朝日新聞などに面白い記事が載っていた。


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〈経団連、安易な文系見直し反対 即戦力だけ期待を否定
2015年9月10日05時13分 朝日新聞デジタル

文部科学省が国立大学に人文社会科学系学部の組織見直しを求める通知を出したことについて、経団連は9日、安易な見直しに反対する声明を出した。通知の背景に「即戦力を求める産業界の意向がある」との見方が広がっていることを懸念し、「産業界の求める人材像はその対極にある」と文系の必要性を訴えた。

経団連は声明のなかで「大学・大学院では、留学など様々な体験活動を通じ、文化や社会の多様性を理解することが重要」と指摘。その上で、文系と理系にまたがる「分野横断型の発想」で、様々な課題を解決できる人材が求められていると主張した。

また、国立大学の改革は国主導ではなく「学長の強力なリーダーシップ」で進めるべきだとも指摘し、政府は大学の主体的な取り組みを「最大限尊重」するよう注文した。

経団連が声明を出した背景には、文科省の通知が「文系つぶし」と受け止められ、それが「経団連の意向」との批判が広がっていることがある。就職活動中の学生らに誤解を与えかねないとの懸念があった。榊原定征会長は9日、記者団に「『経済界は文系はいらない、即戦力が欲しい』という報道もあったが、そうじゃない。即戦力(だけ)を期待しているのではないということを改めて発信したかった」と説明した。〉
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▼ぼくが感じる二つの瞞(まやか)しを指摘しておきたい。この記事を読むと、なんだか「経団連はまともだナ」と感じる人がいるかもしれない。しかし、経団連の声明全文を虚心坦懐(きょしんたんかい)に読めば誰でも感じることだが、

https://www.keidanren.or.jp/policy/2015/076.html

そもそも金儲けを最大の目的とする財界が、これほど偉そうな、威張りくさった態度で高等教育、義務教育に口を挟み続ける現状そのものが異常なのだ。

経団連は、現代の金儲けに欠くことができない項目として「理系・文系を問わず、基礎的な体力、公徳心に加え、幅広い教養、課題発見・解決力、外国語によるコミュニケーション能力、自らの考えや意見を論理的に発信する力」を挙げている。しかもこれらの膨大な能力の数々を、なんと「初等・中等教育段階でしっかり身につけ」ろと要求しているのだ。ぼくはこの文面を目にしただけで、あらためて息が詰まりそうになった。財界が教育界に対して、知力だけでなく、体力や、心のありようまで規制しているわけだ。

▼二つめは、一つめの裏返しだが、「今回の通知は即戦力を有する人材を求める産業界の意向を受けたものであるとの見方があるが、産業界の求める人材像は、その対極にある」という表現の自己矛盾である。金儲けのためにはムダを排さなければならない。財界が自らの良心に忠実であれば、正しく「即戦力しか必要ない」と言うべきなのだ。

経団連の声明は不誠実だ。「息をするように嘘をつく」典型例である。文科省の常盤豊・高等教育局長以下が取り組んでいる「ご説明」と同じく、経団連声明も誤魔化しの「煙幕」に過ぎない。

▼この70年間、どれほど経済界の意向が学校教育にねじ込まれてきたか、図書館に行って少し歴史をひもとけばわかる。ちなみに文科省の諮問機関である「中央教育審議会」の現会長(第8期)は北山禎介氏(三井住友銀行取締役会長)、第5期から第7期まで三村明夫氏(元経団連副会長、新日鐵住金株式会社相談役名誉会長、日本商工会議所会頭、東京商工会議所会頭)が務めた(第7期は途中から安西祐一郎・独立行政法人日本学術振興会理事長)。

▼また、常々からの素朴な疑問なのだが、ニッポンの教育政策を決定している文科省の官僚たちのなかで、教員免許を取得している人の割合は何%なのだろう。教員免許も持たず、学校教育の現場にも立たず、今どういう教育が必要なのかわかるはずがないし、そのうえ財界=資本主義の影響を積極的に受けながら、ろくにエビデンス(根拠)にも基づかず、印象論や、成功体験や、机上の空論などのあれこれが教育政策に紛れ込んでいるとしたら、それは「教育」というよりも「おまじない」に近い。

尤(もっと)も、大東亜戦争以来の「科学的精神」ならぬデタラメな「日本的精神」を注入する伝統が今も息づいているとすれば、彼らが「江戸しぐさ」を「道徳」の教材に選んだ低級な知的能力にもうなずける。


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